昭和四十七年七月十五日 朝の御理解


x御理解第十二節
「神に会おうと思えば、庭の口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」

 教祖の神様が、神様とお唱えになられた神様というのは、空が神、下が神とゆう、そうゆう神様だった訳ですねえ。ですから金光教の所謂神観です。神様をかく見るとゆう、所謂天地金乃神、それを唱えて天地金乃神と、こう申し上げておる。所謂天地そのものが神様だと、教祖は頂いておられる。それで、その本当に神に会おうと思えばとおっしゃる、神に会うた実感とゆうものがね、教祖の場合にはおありになった訳ですねえ。もうこれは空とか土地とかゆうだけでなく、もう森羅万象、全ての天地の中に起きてくる事柄までも、神様の働きとして頂かれる、天地そのものが神様。しかもその天地と、その神様と、いつも語り合っておられる。言うなら血が通い合うておられる。天地の声を聞かれる、又自分の言われる事を、言うなら神様が聞いて下さる。そうゆう意味において、成程神に会うとゆう事が言えると思うのですよ。だから説明だけなら、金光様の神様は、空が神、下が神と説明していい訳ですけれども、それだけではなあにもならんとでしょうが。問題はその神に会うた、その実感とゆうものがね、そこにあって初めて天地との交流がある訳なんですよ。だからここでは、所謂金光教の神観とゆう風に、例えば神は天地の守じゃから離れる事は出来ぬぞと十一節にありますが、同じくやはり神観なんです。
 私共が信心させて頂いておる神様と言うのは、そうゆう天地の守をしておって下さるといったようなね、人間の言葉で説明すると、そうゆう事になる。だから、それを私共が実感としてです、その天地に会うた実感、それがなからなければ本当の意味に於いて会うたとゆう事にはならない訳です。そこで私は、今日は、神様に会うとゆう事、どうゆうような信心をさせて頂いたら教祖が感じられたであろう、神様の息吹を、そこに聞くような又の御理解に畑で肥をかけておろうが道を歩いておろうが神の中を分けて通りおるようなものじゃと、こうおっしゃっておられる。
 例えば朝露でいっぱいの道をね、通りますと、朝露で着物が濡れますよね。分けて通りながら朝露を感じ、朝露で濡れる。それを感じておられるとゆう神様なのです、教祖の場合。天地に会うというても、会うたらお早ようございます、又向こうからお早ようとかえってくるようなものを感じておられる訳です。だから生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだ事なしとおっしゃる、その生きた神様に向うんですから、それがなからなければ会うたとゆう訳にはならないのですよ。只漠然と、金光教では天地を神と言うとゆうだけでは、これは何にもならん訳です。だから私共もやはり天地に話し掛けられ、又天地から話し掛け下さる事がキャッチ出来る位なおかげを頂きたいと言う訳です。今日は、そうゆう意味でのお話になると思います。
 今朝方、私はお夢を頂きました。ここで御信心しておられて亡くなられた方達が沢山ありますが、その亡くなられた方達がです、皆亡くなられた方達ばっかりなんです。それが生前の姿そのままで輪をかいてね、信心共励会をしよんなさる、とゆうお夢でした。これは私共だけが信心共励するんじゃない。霊様もやはり生神金光大神の御取次を頂かれる世界に、お国替えとゆうのはそれなんです。私共が死んでも生神金光大神の、所謂御取次が頂ける世界に行くのです。そしてやはり、より安心のおかげを頂かれる、より高められた、所謂霊様としてのおかげを頂くために、やはり霊様は霊様なりに、信心共励があっておる。それに私も出席してるとゆう訳なんです。
それがひとっつもですねえ、生前の姿そのままですから、目が覚めてしもうてから、あらあ今日の信心共励は死んだ人ばあっかりだったなあと思った位ですけれど。中でね、稲数?に高山さんとゆう方がおられます。お爺さんで、なかなか活発なお爺さんでしたけれど、先年亡くなられました。その高山さんが「親先生、私はもう本当に残念に思うとる事がある。」と言われるのですよ。「どうゆう事だったですか。」「しっかり教えも頂いて信心しよったばってんか、私の信心は的なし信心じゃった。」と、こう言われる。こちらへ来てから思うことはです、本当にあがしこ信心もし、あがしこ教えも頂いとったつに、どうしてその的なしに信心したじゃろうか、と私に言われる。終わって目が覚めた。
 ははあ成程一生懸命信心しよった方達ばっかりなんです、この霊舎に鎮っておられる霊さん達ばっかりなんです。そして、その信心共励をしておられる中にです、そうゆうような事がひとつのテーマになって信心共励をしておられるとゆう感じ。親先生、私はこちらへ来て本当に残念に思う。あれだけ信心もし、あれだけ教えも頂いておったばってん、私が信心は的がなかったと。漠然として教えも頂いておった。そして願い事があれば、お取次を頂いてお願いをしておかげを頂いてきたもののです、こちらへ来てから、しもうたと思うておる事は、これだったと、こう言うのです。
 皆さんどうでしょうか。皆さんの信心は的があるだろうか。成程信心の稽古を限りなくさせてもらうのですから。ですけれども、ひとつの的、所謂これは弓を射る時の的ですよね。いきなりに引いてきたけれども、いきなりに弓だけは引いてきたとゆうのです。それこそ満月のように引き絞っては引き、引き絞っては引きして、只引いてきたばあっかりだとゆう事。だから信心が上達してないとゆう訳です。初めから的に百発百中当たる人はありやしますまい。けれども段々その姿勢を習うたり、その要領を段々体得させて頂いてです、その中心の的に百発百中当たるような所を願いとしての稽古とゆうものが出来ていなかったとゆう事。これは私は改めてね、これは私共もやっぱハッキリひとつ的を定めて、あらゆる問題を通して、あらゆる難儀を通して、私は日々ここへ焦点を置いての、おかげでなからなければならないと思う。
 しかもです、昨日の御理解じゃないですけれどもです、もうそこひとつに根性を持たなければならない。もうそこにひとつ徹底してゆかなければならない。「今日もどうぞ信心の稽古をさせて下さい」朝参りをした、教えを頂いた、とゆうだけではなくてです、その信心の稽古の焦点とゆうものが、どこに置かれておるか。こうやってお話をさせて頂いておりますと、皆さんが「ああそうだ」とすぐ感じられると思う。皆さんが今感じられておる通りなんです。私は、今朝の御祈念中にしきりにそんな事を思うたんですけれども、本当にこの和賀心、和賀心時代しかもそれを世界の隅々に迄、そうゆう願いはとても立てられたところで千年万年もかかっても、ひょっとすると成就しないかもしれない。けれども、どうでも成就の事を願いとして、私共は信心させてもらうわけですけれども、まあせめて一年三百六十五日の一日だけでも世界中の人間がです、今日は「和賀心デー」とゆうものを設定して、今日だけは喧嘩はしよっても休む、戦争しよっても今日だけは休む。どんなに仲の悪い者でも今日だけは、ひとつ和賀心で過ごすといったような、年に一回三百六十五日の一日でもよいから、和賀心とゆうものを焦点にして、信心の稽古とゆう訳でもないけれども、和賀心とゆう事がこんなにも有難いんだとゆう事を、一日でもよいから体験されたら、その運動が段々、一日が二日三日とゆうように広がっていくおかげになるのじゃないだろうか。
 母の日と言えば赤いカーネーションやら、又は白いカーネーションやらを世界中の人達がつける事が段々、そうゆう運動が徹底していきよりますように、今日とゆう今日は和賀心で世界中の人間氏子がです、それこそ世界中が喜びで充ち溢れるような一日ぐらいあってもよかりそうなもの。そうゆう運動を展開していくようなおかげを頂きたいなとしきりに考えた。まず手始めに、そうゆうような事。
 それには、そんなら和賀心とゆう事がです、どうゆうような事であるか、勿論それに説明書がつかなければいけません。世界中の人達に、和とはこう、賀とはこうと、そして今日とゆう今日一日だけは、和賀心デーとして世界中の人達が、そこんところに焦点を置いて一日を過ごさせて頂き、世界中がそれこそ歓喜に満ち溢れるようなおかげを頂いたら、天地の親神様がどんなにかお喜びだろうかと、今日はしきりに考えた。
 そんなら私共お道の信奉者はです、それが一日じゃない。それを四六時中どのような問題、どのような難儀な中にあっても、そんなら難儀、これは苦しい事、これは悲しい事、これは困った問題だと思うけれども、その悲しい事やら難しい問題の中から、いかにして和賀心をもってこれを受けるかとゆうところに焦点を置かなかったら。もうそう思うたらすぐ和賀心になれたとゆう事が出来るはずがない。所謂稽古なんです。どんなに思うてみても思うてみても、どんなに引いてみても引いてみてもです、その的を射当るとゆう事は中々難しいけれども、やはり的はそこにはっきり和賀心とゆう大きな輪の中へ私共が入って行けれる稽古を積んでいかなければいけない。
 そこからです、所謂生神金光大神の境地、どちらへ転がしても有難い。どうゆう事になっても、その時点で既に、もう有難い勿体ないとゆう心が生まれておるとゆうように、段々なってゆけれる事が楽しみでお互い信心させてもらわなければならない。だからどれだけお話を頂いておってもです、時々そげん事しよるとゆう事ではね、もう上手になれやしませんです。それは当たらんでもいいです。そう一辺に当たるはずはないです。こうゆう例えば難儀な問題をです、どうして喜べるかと思うてもいいです。けれども本当は、ここを和賀心で受ける、信心する者は肉眼を置いて心眼を開けとおっしゃるから心の眼を開かせて頂いたら、これは喜びで受けなければならんのであろうけれども、生身凡夫の事でございますから、相分からずと、やはり悲しい事は悲しい苦しい事は苦しいのであって、けれどもそんなら目当てとゆうのは和賀心でなからなければならないとゆう事です。だからこれは、もう四六時中、的はそこでなからなならないとゆう事です。そしてそれを引く稽古の楽しみ、輪の中にいくつも輪が書いてありますよ、中心から段々と。その、あそこ迄は当たるようになった。ここ迄はもう射れるようになったとゆう私は確信を積んでいくとゆう事が、神様を信ずる心と、私は思います。自分はここ迄は射れるようになった、それが確信なんです。しかもそれがです、百発百中命中するようなおかげ、どのような場合であっても有難うございますと、有難うございますが出るようなおかげ。
 昨日の御理解に、「無事健康で一年勝り代勝りのおかげを、おかげを受ける事が出来るぞ」と頂きましたが、しかもそれが段々信心によって家柄人筋迄変ってくると。変ってくるはずですよね、今私が申しますような和賀心とゆうのが目当てですから。しかもどうでもそれが本当だとゆう事を先ず分からしてもらい、当たらない、中々真ん中に当たらんけれどもです、その真ん中に当たる事を焦点に信心の稽古をさせて頂くのですから、家柄人筋が変ってくるはずでありますし、同時に子孫も続き身代も出来一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るとゆう事。そうゆう御理解頂いとりますと、末永さんが御理解頂きながら頂いておる事がね、「大家栄」と頂いている。一年勝り代勝りのおかげ、しかもそれが家柄人筋となってまで家が栄えていくとゆう事なんです。これはもう絶対そうだと、私は思います。私がこの程度におかげ頂いて、まあだまあだこれからいよいよ栄えていく事であろう。この信心さえ間違いなかったら、言うならこの信心とゆう事はです、どうゆう事かと言うと、和賀心とゆうものが目当てであるところの信心。弓矢の稽古をさせて頂くでも的がなからにゃ、いきなり引いただけじゃいかん。丁度霊様達が輪をかいて信心共励をなさっておられるように、あの世におる時、あれだけ親先生のお話を頂いとったけれども、信心も熱烈にしたけれども、修業もしたけれども、私のには目当てがなかったと、霊様はそうゆう風に云っているんです。親先生これだけは残念じゃったと。
 だから私共がね、この世におる間に、どんなに修業させて頂いて、どんなにおかげを頂いておる実績を持っておってもです、それではたいした事はないとゆう事です。信心の稽古とゆうのをいきなりされただけであって。和賀心、どうゆう問題であっても、和賀心とゆう答を出していく事の為に、信心の稽古とゆうものは日々なされなければならないとゆう事。そしてです、そうゆう事がこんなにも有難い尊いものだとゆう事が分からなければ、今日私が言う世界中にね、このような運動を展開していこうとゆうような事も出来ませんですよね。体験者が語ってくれる、体験者が説明してくれる。皆がそれを成程と聞くようになる。しかも世界中の者が聞くようになる。三百六十五日の中にたった一日でもよいから和賀心デーといったようなものを設定して、和賀心デーの菊の花でも胸に付けるようなね、世界中の人間が。それこそ喧嘩をしよっても今日だけは止める。戦争をしよっても今日だけは中止をするとゆうようなです、私は一日が、一日でもよいからそうゆうような事を今日私は思わせて頂いたんですけれども。
 それが、そんならお道の信心させて頂く、合楽で信心の稽古させて頂く者はです、あの世でがっかりせんように、本当に目当てとゆうものをそこへはっきりおいてです、そこへ射抜かせて頂くところの稽古をさせて頂く。初めから百発百中そこに当たるとゆう事は及びもつかない事でございましょうけれども、それをやはりうまずたゆまず、そこんところに焦点を置いて稽古させて頂かねばならん。私の信心には、そうゆう目当てがある。しかも日々どのような事柄、どのような問題でも、やはり答はそこへ持っていくんだと、ゆうひとつの思い込みをですねえ、ひとつの根性を持って、そこに焦点が置かせて頂けるような信心がです、段々出来て参りましたら、今日の御理解、神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ、神が空、下が神と。
 これは教祖の神様の場合はです、本当に天地に接せられる時にです、もう天地と交流しておる、もう会うた実感とゆうものを感じておられる。神の声を聞かれ、又自分の願いをそこに、所謂神様との話し合いが出来る程しに接近しておられる。神と会うておられる。だからこれを、只金光教の神観とだけ頂かずに、私は神に会うとゆう実感がね、伴う程しの天地。世界中の氏子に話がしてみたいとおっしゃる天地なのですから、絶えず私共が話し掛けておって下さるのですから、それを私共は聞き受けさせて頂ける信心。同時にこちらから申し上げた事はいちいち神様が合点して下さって聞いて下さる事の実感、それが本当の意味に於いての神に会うた実感じゃなかろうかと思うのです。
 だから神に会わせてもらう、只理屈の上、説明だけで分かるのでなくて、私が毎朝三時半に、ここへ出てから天地を拝します時に、もうそん時に吸う空気だけは違うような気がするです。ははあ金光大神はこうゆう感じを四六時中受けられたのじゃろうかと思うのです。私の場合は、それが朝のひと時ですけれどもです、これを私は、四六時中頂かせて頂くことに焦点を置くとゆう事がです、今日私が申しましたように今日の霊様達の信心共励会をお夢の中に頂いてです、その事をひとつ思うてみて下さい。
 もう先生、ほんに残念じゃったと、死んでから思わんように、私はあれだけ信心しよったばってん目当てがなかった信心の、その目当ての一番間違いのない目当ては、今日私が申します、和賀心とゆう心を焦点、中心としてです、その上にまだいくらも輪があります。それもやっぱり的になる一部分ではありましょうけれども、肝心なところは、その、和賀心とゆうのが焦点。そこを射抜かせて頂く事の為に、日々稽古をさせて頂くとゆう、そうゆう稽古から、神に会う実感。
 神様にお早ようございますを申し上げたら、神様がお早ようと応えて下さる程しの実感、そうゆう意味において神に会うところの出来れる心の状態とゆうものをです、いよいよ本当のものにしていきたいと思います。今日はそうゆう意味でね、いつも神観とゆう事をいろいろ説明頂くのですけれども、本当に神様に会うとゆう事、目の前に神様が「末永さん」「はい」と、会うたら返事をするでしょう。「親先生」「はい」と返事をするでしょう。そうゆう意味に於いて会えれるおかげを頂きたいと思うですね。どうぞ。